織田信長は今さら言うまでもなく、日本史上で屈指の英雄ですよね。
1990年代にはその先進性がかなりの評価を受けていました。現在ではいささかトーンダウンしていますがそれでも革命児、天才と言った評価が的外れではないように思います。
その信長には11人の男子がいますよね。ただ歴史的に見てそれなりの存在だったのは長男の信忠、次男の信雄、三男の信孝ぐらいのものだと思います。
今回はその中で三男の信孝を取り上げてみたいと思います!辞世の句や切腹の時の掛け軸の話が有名ですが、有能だったのでしょうか?
織田信長の息子たち
信長の息子たちは、長男の信忠以外は器量がイマイチだったとも言われていますよね。あるいは早死にしたので何とも評価のしようがない人物もいますし。
ダメな方の代表は次男の織田信雄ですよね。イエズス会の宣教師のルイス・フロイスにも酷評されています。安土城を燃やしてしまった件では当時からアホ扱いされていたようですね。
ただそれでもどんな形であれ大名に復帰していますし、大名として家も子孫も残しています。家の残すことが武将や大名の最大の使命、あるいはそれが勝ち組ということであれば信雄も勝ち組ということになりますよね。
加賀前田家の3代目当主の前田利常も家を残すために鼻毛を伸ばしたりアホの振りをしていたそうですからね。そんなことをしなくても良かったというのも逆に言えば一種の才能かも知れません。
それと秀吉から見たらわざわざ排除しなくても良かったということでしょう。
しかし何が幸いするか分かりませんなあ。賢く生まれるばかりが能ではないと言うことですね。
三男の信孝の評価は?
それから三男の信孝の方も今までは覇気はあるが短慮というようなイメージがあったと思います。
しかしwikiを見る限りそんなに暗愚ではないですよね。武将としてそれなりの水準にあったようです。
ルイス・フロイスも信雄と違ってかなりの評価をしています。最もキリシタンに改宗しようとしていたと言う話もありますからフロイスの評価も割り引いて考える必要はありかも知れませんが。
とは言っても父である信長や秀吉といった日本史上屈指の英雄と比べるのは酷ですけどね。秀吉相手に上手く立ち回れなかったのも仕方がありません。
でも考えてみれば秀吉が排除したということは、それなりの器量にあったということだと思います。容姿も一番信長に似ていたそうですしね。
ただ人望と言う面ではそれほどでもなかった感じですね。配下の武将や家臣団も抑え切れてなかったようですしね。
最も家臣団については信孝だけの問題ではないと思いますが。
信孝の辞世の句が強烈!
信孝も最後には秀吉に切腹させられてしまいますが、その時に自分の腸を引きちぎって掛け軸に投げつけたとも言われていますよね。
それと辞世の句として「昔より主を討つ身の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」という句を読んだとされています。これはまた強烈な句ですよね。秀吉に対する激しい怒りが感じらられます。
しかし掛け軸の件やこの句についても後世の創作という説もありますけどね。まあそう考える方が自然かも知れません。
ただ創作だとしたら、信孝であればこれぐらいのことやったりこういった句を残しても不思議ではないと当時は思われていたと言うことだと思います。
そうであればやはり気概や覇気と言う面ではかなりのものがあったと言うことでしょうね。